本願寺第8世の蓮如上人(1415~1499)は真宗中興の祖と呼ばれます。若い頃は不遇でしたが、宗学の研鑽を積み、近江や北陸で布教に努め、本願寺の教線は大きく進展することになります。その後、摂津・河内・和泉での布教に力を入れ、山科において本願寺の再興を果たした上人は、明応5年(1496)、大坂に石山御坊を建てました。これがやがて本願寺へと昇格すると、坊舎の周りに築かれた寺内町は、日本史上まれに見る宗教王国へと発展していきました。なにしろ当時の真宗門徒は大坂の本願寺へ行くことを「上洛」と呼んでいたそうですから、大坂本願寺こそが「心の都」であったことになります。
蓮如がやってきた当時、上町台地の北端の地は生玉荘と呼ばれていました。それがなぜ「石山」と呼ばれるようになったのでしょうか。蓮如の孫である顕誓の書いた史料によると、石山御坊創建当時、そのまま礎石に使える大きな石が土中に多数そろっていたので石山と呼ばれるようになったということです。そこは、かつて難波宮(7~8世紀)が在った場所に当たりますから、もし古代の王宮の一部に行き当ったのだとしたら、古代都市・難波京の眠りを覚まして新たな歴史を切りひらいたことになります。
この、難攻不落といわれた石山の本願寺に戦いを挑んだのが、天下統一の拠点として上町台地に着目した、織田信長でした。信長は十年余に及ぶ激しい闘いの後、天皇の詔勅をもって紀州に本願寺を退却させます。そして、いよいよ大坂に最終的な本拠を構えんとした矢先、明智光秀に討たれてしまったのでした。その後、織田信長の後継者となり天下を統一した豊臣秀吉が、本願寺の跡地に、東洋一の巨城を築いたのが、近世の大坂城の始まりとなります。
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